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3  旗見のかま跡   境走195番地

旗見のかま跡が発見されたのは、昭和42年3月であった。かま跡とは、昔食器のわん、つば、びんなどを焼いたかまの跡のことである。
 昭和41年どろ、旗見の真鍋佳資氏から、田の中から、つばのかけらが出てきたとの知らせを受けた町教育委員会は郷土史家飯田義資氏に調べてもらったところ、かま跡であろうとのことであった。
 昭和42年3月11日から1週間、当時同志社大学文学部森浩一助教授が発掘調査した。調査によると、このかま跡は、平安朝時代(10世紀)のもので、須恵器を焼いていたことがわかった。わん、つば、びんなどが出てきたが、つば(破損している)は町教育委員会が保存している。
 このかまは、畠の畔にあり、登りがまで、20度から30魔の傾斜をもち、底に当たる部分が残っている。大きさは、長さ9.3メートル、幅1.5メートル、高さは天井がくずれてわからないが約1メートルと推定される。破片をすてる灰原が極めて小さいのと、瓦など焼いた跡がないのが特徴である。平安朝の土器がまは、唐の文化の影響を強く受けており、作品にもそれが強く出ているものだが、旗見の須恵器は、中国文化の影響が間接的にしか見られないのも特徴である。かまの中に土器を段々につめ、一昼夜燃やすと1,100度から1,200度になり須恵器ができる。
 須恵器のかま跡は、徳島では阿南や板野郡にもみられたが、開墾などで、今はここだけである。須恵器を焼くには、粘土、燃料、水などの条件がそろわなければならない。

ちなみに、この旗見かま跡の土地所有者は旗見の真鍋多良氏で、面積17.8平方メートルを無償で山川町に貸付け文化財保存に協力した。
 山川町では屋根を造り、これを保護している。

旗見のかま跡


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