<目次>

61  山尾家・寺内家・真鍋家  山尾家 井上37番地
                 寺内家 若宮156番地
                 真鍋家 石堂14番地

 井上の高越登山口、学坂の鳥居付近から西を見ると、正面に門があり、白壁に囲まれた瓦葺きの家がある。それが江戸時代に山奉行を勤めていた山尾家である。現在の家は今から約100年前に建てられたもので、様式は書院造りである入り口が2か所あり表玄関は身分の高い来客が出入りしたところであり、北側にある玄関が日常の出入りに使用された。同家の門は、徳島城の内門を明治6年(1873)に移し建てたもので、その門には同家の家紋である「三ツ柏」の紋が2つと、赤松家の家紋といわれている「三ッのさねだき柏」の紋が1つ、合計3つの紋が並んでいる徳島城は明治初期(約100年前)に取りこわされ一部残っていたが・昭和20年7月の空襲により焼失してしまったので、山尾家の門は徳島城の唯一の遺物といってよい。
 山尾家はもと姓を赤松といい、尾州(愛知県)海東郡蜂須賀郷花木村に住み、はじめは織田家に仕えていた時、元和9年(1623)に現在の地に来て、山尾という苗字に改めた。以来、明治初年まで山奉行を勤めていた。したがって古文書も「先祖由緒書」と「御林諸用記録」が3冊に関する記録等数多く蓄蔵されているので、に町文化財の宝庫の一つであるといえよう。
 瀬詰の寺内家も山奉行を勤めており、建築様式も山尾家とよく似ている。同家はもと稲田の家臣であり、元和年間(1615~1623)に現在地に移住した。多数の古文書もあり、重要な史料として保存されている。
 旗見の真鍋家は今から約180年前に建てられ、葦葺き四方下で、門・寝床・倉を備えたりっばな屋敷構えである。屋根は鉄板で包んであるが、総葦葺きは県下でも数少ないであろう。

山尾家

真鍋家