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60  庄屋屋敷

 庄屋は関東では名主、関西では庄屋、肝煎、政所とも呼ばれた。いわば、村長である。一般に古い家柄で、村の中心になって代々庄屋になった。その仕事は村単位に決められた年貢を農民に割り当てたり、年貢納入に立ち会ったり、また村の土木工事や戸籍調べ宗門改めを行ない、また土地の売買や質入れの証文に印をおしたり、農民からの訴えの書類に目を通したりすることであった。
 本町は江戸時代に、山崎・瀬詰・東川田・西川田・川田山の5つの村に分れていた。その各村に1軒の庄屋があった。現在、庄屋屋敷の名残りをとどめているのは、写真にある迎坂の住友家だけである。
この住友家は川田村の住友家とは別系であり、川田山村が分立した天正17年(1589)から庄屋を勤めている。同家ほ約100年前まで現在地より西南約500メートルの皆瀬にあった。現在の建物は、その大半は移転して建てたもので、ことにその門の様式は貴重なものである。なお、同家には系図をは蔵されている。
 東川田村の庄屋跡は村雲の福山家のある所で、天王原の住友家が元そこにいて庄屋を勤めていた。西川田村の庄屋跡は川田天神の原田家のある所であり、その西隣の住友家が庄屋を勤めていた。東川田村の住友家が、天正16年(1588)より、川田村の庄屋を勤めており、住友家の宗家であった。
 西川田村の住友家は川田村が東西に分れた時に、分家したものである。住友家の古文書は、最近に鹿児島進七が「住友家記録」と題してこれを写したが、極めて貴重な文献とされている。
 山崎村の庄屋跡は宮島の小井田家の所であり、庄屋を勤めていた田中家は、現在絶えているので、同家に関する古文書は不明である。
瀬詰村の庄屋跡は若宮の故・安部(忠一)家の西側であったが、ここも庄屋を勤めていた安部家は現在、大阪へ転居しているので、古文書などはまったく不明である。

庄屋屋敷