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50  川田川

 美郷村奥野々に,その源を発している川田川は,南部山地を合わせて,本町中部を北へ流れて,吉野川に合流している。川田邑名跡志によると「水上は高越山より流れ出て,中村山・別枝山・桁山より流れ,水上,三筋にして川又という所に一筋になり,川田村の真中を流れ,瀬詰村より吉野川に至る」「川田村の地名は、この川水をせきとめて田と成したためか」と書かれている。
 山地は,結晶片岩層からできているため,谷が深く,峡谷状になっている所が多い。特に,迎坂から旗見に至る県道沿いの谷は景勝地として有名である。川東および町の街路が発達している平坦地は,この川田川がつくった沖積平野であり,吉野川の沖積平野とともに集落をつくり,山川町民のよき生活の場所となって発達してきた。この川田川は,昔は今の鉄道の南側を東へ流れていたものが,しだいに北を流れるようになり,湯立の北を東にまわって,鉄道の北側を東へ流れ螢川となって吉野川に注いでいた。
かつては,螢川にも渡船場があった。ところで,文政11年(1828)に,今のように吉野川に直流させるため川田川に長大な堤防を作ったので,湯立方面はいっそう危険にさらされることになり,そのために反対運動が起きたいきさつが残っている。
 その後,時代の移り変わりとともに,人口問題ともからみ護岸を強固にして,農地を拡大するため,北島から右へ曲がって湯立,螢橋に通じていた流路を,大正14年(1925)8月に、北流させて旧瀬詰の字春日で,吉野川に直流するように変更した。このため旧瀬詰,旧山崎では,下流に沃田が開かれ,さらに用水もつくられ、昔の面影は一部分のみとなってしまった。
 また,大正14年(1925)8月には,国道に瀬詰橋が建設されて、その様相が一変した。一方,螢川は川田川に堤防ができたため、今では川田川との連絡が絶えてしまって,両岸一帯は開拓され水田となったので,川幅はたいへん狭くなっている。そして吉野川への入口に水門がなかった時代は洪水の時は逆流して氾濫し、田畑・家屋に浸水し,交通が杜絶することがあった。
 特に,螢橋附近は,古くは水流が激しく,そのため、大きな淵ができ,今も河道にその当時の名残りをとどめている。現在、水門ができ、山瀬堤外も洪水によって生活を脅かされることも少なくなかった。

用水
農業を生活の主としていた昔の人々にとっては、旱魃は大きな災害であった。慶応2年(1894)には80日間、明治4年(1871)には76日間,明治27年(1894)には137日間も,雨が降らなかったとの記録がある。これらの対策として,われわれの祖先は,溜地や用水の建設等にひじょうな努力を払った
ものである。わが町に縦横に張りめぐらされた用水路は,祖先の血のにじむような苦労が含まれている記念物であるといえる。
 本町における用水の主なものには「翁喜台用水」「川田西用水」「川俣用水」,また,耕地整理としては「西川田耕地整理」「湯立耕地整理」等があげられる。